開け放した出入り口から入り込む風は涼しく、じっとりとし始めた気候には、ほどよい心地よさを与えてくれる。少し曇りかけてはいるが、それでも陽射しは差込み、午後のひとときをゆっくりと照らしてくれる。
教科書へ落していた視線をそらし、ふと瞳を閉じた。油断すると、そのまま眠りに落ちてしまいそうだ。
それもいいか……
忍び寄る睡魔に抵抗することもなく、机に肘をつく。
これもいいか……
「やっほーっ」
……これは良くない。
閉じたままの瞳の上で眉を寄せる。全身からかもし出す不機嫌にまったく気づいていないのか、入ってきた男子生徒は親しげにポンッと肩を叩いた。
「寝てんのか?」
このまま寝たフリしてやろうか?
だが、頬に強めの衝撃を受けて思わず立ち上がった。
「いたっ!」
「なんだ、起きてんじゃん」
「誰だって起きるわいっ!」
美鶴は抓られた頬を摩りながら、相手をねめつける。一方の聡は、頬を抓った右手の指をピクピクと動かして楽しそう。ダラリと中途半端に緩めたネクタイに手をかけて、首をふる。
「でも、寝たフリしてただろ?」
「してちゃ悪いか」
「無視するなんて、あんまりじゃねぇ?」
とうとう外してしまったネクタイを机の上に投げ、上着も脱ぐ。
「っんにしても、あっちーなぁ〜。ここ、夏はすげー蒸すんじゃねぇ?」
「イヤなら出て行け。用もないんでしょう?」
「イヤなんて言ってねぇだろ? あぁもう、そのツンツンした態度、いい加減にしたら? 俺って、もしかして嫌われてるとか?」
嫌われているとは露ほども思ってはいまい。美鶴としても、別に聡が嫌いというワケではない。ただ……
「聡―っ!」
これが嫌なのだ。
甘ったるい声をあげて、聡の後ろから入ってくる。
「もうっ、聡ったら歩くの早いっ!」
「あぁ?」
脱いだ上着も机に投げながら、間延びした声で振り返る。シャツの第一ボタンを外し、続けて第二ボタン。胸板がチラリと覗く。
「ほらっ、ノート」
「ノート?」
「今日の数学のノート見せてくれって言ってたでしょう? ちゃんとまとめておいたから」
「おっ、サンキュー」
袖のボタンを外し、捲くりながら近づいてくる聡の笑顔に、少女は頬を紅潮させた。
だが一方の聡は、そんな相手に気づいている様子もなくノートを受け取ると、顔の横でヒラヒラと振って首を傾ける。
「悪いな」
「べ、別に……」
屈託のない笑顔を向けられて、少女はさらに動揺しているようだ。
見苦しい……
侮蔑の視線に気づいたのか、少女は美鶴へチラリと視線を向ける。紅潮していた頬が一気に静まり、逆に瞳が鋭さを帯びる。そうして、大きく口を開けた。
「こんなムサ苦しいところにいないで、外出てきなよ。みんなでボーリング行こうって言ってるんだ」
唐渓の生徒にしては珍しく砕けた口調と明るめの声。それをワザと大きく発音し、両手を聡の腕へ伸ばす。だが、聡はさらりと交わした。
「悪りぃなぁ〜。ボーリングはまた今度」
「今度今度って、いっつもそうじゃん」
なおも腕を伸ばしてくるのを制して、その肩を掴む。そして素早い動作で少女の身体を反転させる。
「あー また今度な」
「ちょ、ちょっと」
背中を押されながら出入り口へ向かわされ、少女は慌てる。後ろの聡を必死で振り返ろうとするが、大きな力に押されてなす術もなく建物の外へ。敷居を跨いだところでようやく開放され、少女は急いで振り返った。
「なによっ、追い出すことないでしょう」
「悪りぃな、ここは俺のテリトリーじゃねぇんだよ」
曖昧に笑って扉を閉めようとする。少女が慌てて手をかけた。
「何よっ! そんな陰険な女と一緒にいることないでしょうっ!」
「陰険って言い方はよしてくれ」
静かに言い返され思わず言葉に詰まった隙を突いて、聡は静かに扉を閉めた。だが、扉は上半分はガラス。閉めてもお互いの姿は見える。
「なによっ バカッ!」
少女はガラスの向こうで吐き棄てるように叫ぶと、スカートを翻して走り去っていった。
「行ってやればいいじゃん」
振り返ると、美鶴が教科書へ視線を落したまま。聡は軽く肩を竦めた。
「別に行く必要もない」
「ここに居るよりよっぽど楽しいわよ」
「ここに居る方が楽しい」
「暑いんじゃない?」
「だから脱いだ」
聡は両手を広げて自らの出で立ちを見せると、机を挟んで美鶴の向かいに座った。無視するつもりであったが、手元が陰り、思わず顔をあげてしまった。
背後のガラスから差し込む光を背中に浴びる。逆光になった聡の顔は暗い。だが、その顔立ちははっきりと見てとることができる。
小さな瞳に揃えられた太く濃い眉毛。肩にかかるほどの髪は、今日は束ねず流したまま。口元くらいまで伸びた前髪が耳元で微かに揺れている。開かれた襟元から胸板が覗き、捲くられた袖口から伸びる腕は逞しい。空手とは離れているようだが、独自に鍛えてるのだろうか? 焼いているワケではないだろうが、どちらかというと色黒だ。
目が合い、再び視線を落す。
いわば幼馴染。昔はお隣さんで、聡の両親が離婚して引っ越してからも、交友関係は続いていた。だが、高校入学時に美鶴が黙って引っ越してしまい、唐渓高校へ入学したことも知らせていなかったので、以後しばらく音信不通。
再会したのはほんの一ヶ月ほど前。高校二年に進級した四月、聡が転校生として唐渓高校に入ってきた。
「っんにしてもさ」
聡は机に片肘をつくと、頬杖をついた。
「いまだに違和感あるよな」
「何がよ?」
「そういうお前」
一心に教科書へ視線を落とし、ときおりノートに書き込む姿は、勤勉家そのもの。
「するなとは言わないけどさ、なにもそこまで根詰めて勉強することもないんじゃないのか?」
「邪魔するなら出てってよ」
それが約束だ。
聡はやれやれと大きなため息をつく。
本来この場所は、美鶴が誰からも邪魔されずに一人で過ごすために見つけた場所。だから誰にも入り込んでもらいたくはない。それでもしつこく食い下がる聡と、そしてもう一人の少年に対して、ついには美鶴も根負け。
自分の邪魔をしないなら。
それをまず一つの条件として。そしてもう一つ。
美鶴がフッと顔をあげる。そうして聡の背後のガラス窓を思わず睨んだ。その視線に気づいて聡もそちらを振り返る。
ガラス窓から数歩離れた場所で、同じ唐渓高校の女子生徒が三人、手を振っている。もちろん相手は聡だ。
美鶴は無言で聡を睨んだ。聡はガックリと頭を落とし、それからゆっくりと腰をあげる。
「言っとくけどなぁ」
出入り口の扉に手をかけて振り向いた。
「俺のせいじゃないからな」
「原因はアンタでしょ」
冷たく返され、また大きなため息をつくと、静かに建物を出て行った。
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